美濃地方の誠照寺派門徒は、誠照寺開基の如覚上人が布教をされたことにはじまるとされています。

戦国時代、誠照寺は初めは朝倉氏、後には織田信長に味方をして石山本願寺率いる一向一揆勢と激しく戦ったといわれており、信長が金森長近などの一揆討伐軍を送る際には根尾、徳山を経由したとの事で、この時代から誠照寺門徒が根尾、徳山にあったものと思われます。後に誠照寺は柴田勝家に味方をしたとみなされたことが原因で、賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉の焼き討ちにあったとされています。
難を逃れた誠照寺第10代秀意上人は美濃のご門徒のもとに数年間かくまわれていたとの言い伝えがあり、古来より美濃のご門徒と誠照寺との間の絆はとても強かったようです。

江戸時代はじめに、焼け野が原からの復興となった誠照寺を教団として再興された第15世(しゅうかん)上人は美濃の檀家回り(通称お回り)を興されました。

夏に2か月くらいかけてお上人様一行が徒歩で村々を巡回するもので、各村では踊りがたち、その村での年に一番の楽しみの行事でもあったようです。

【昔の誠照寺美濃夏廻りの巡廻路】


より大きな地図で 美濃廻り巡回路(往古) を表示

一時衰退した時期もあったようですが、第20世秀實上人が再び美濃廻りをされました。晩年、高齢でご自身が廻れなくなった時、ご自身の思いや親鸞聖人の教えを綴った手紙である「御書」をお書きになり、それを託された使僧が巡廻しました。

現在の美濃廻りでも法座において使僧が必ず拝読するのが、寛政7年(1795年)に秀實上人の書かれたその「御書さま」です。


【美濃廻り御書】

【第20代 秀實上人】(1731年生~1806年往生遷化) 

延亨元年(1744年)に輪王寺宮の斡旋で誠照寺に13歳で入寺されました。本堂ご本尊の厨子の建立、境内の梵鐘や経堂を作り、四足門を再建されたりと、本山伽藍の整備や門徒教化活動に力を尽くされました。
又美濃廻りを復活させ、ご自身も巡回されるようになりましたが、高齢となられた65歳の時に御書様を書かれ、使僧にたくして巡回教化されました。
1806年(文化3年)12月19日、75歳で往生遷化されました。

   美濃廻りに使用した「御書駕籠」。使僧が侍(随行)と共に村々を廻る際に、お上人様の「御書」をこの駕籠に入れ、村の人たちが駕籠を担いで一緒に回ったとの事です。
(徳山民族資料庫所蔵)
 現在は、相ついだ自然災害やダムの建設で村がなくなったり、社会の大きな変化により山間部から都市部への人口流出などで、昔とはさまざまなことで大きく形が変わってしまいましたが、昔から代々お念仏相続をされてきた美濃のご門徒方の篤く尊い信仰心により、今年も尊い夏の美濃廻りがつとまります
平成28年度美濃回りで御親教をされる20世ご法主さま 
(根尾長島道場にて)